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17    陳述書【1下肢を足関節以上で失ったもの】
 
 
 
陳述書
 
    
 人生が一変した今回の事故は、仕事を終え帰宅する深夜2時頃発生しまた。赤信号を無視した若者による無謀な運転で真横から追突され、単車と共に交差点中央付近に投げ出されました。
 
 深夜の為辺りは真っ暗で、信号機の僅かの灯りだけでは見通しが悪く、後続車から惹かれる恐怖を感じ、安全なところへ移動しようと思いましたが、激痛で動く事が出来ませんでした。事故の相手は、おろおろするばかりで、自宅への電話と救急車の手配を早くするよう指示しなければなりませんでした。意識ははっきりしていましたが、激痛のなかいっそ気絶した方が楽でした。
 
 病院へは救急車で搬送され、医師の診断をうけた時に、初めて自分の足の状態を知り衝撃を受けました。〇時間におよぶ手術を終え、病室で聞かされた結果は、愕然とするものでした。生涯にわたる後遺症が残る事を聞かされましたが、受け入れる事はできませんでした。
 
 事故とはいえ、こちらの都合で仕事を休み、お客様に迷惑をかけるわけにはいかない。この時そう思いました。私は、一人で全ての仕事をこなしていましたので、休んで入院することは死活問題です。
  妻から知り合いの同業者へ連絡を取り、事情を説明すると、その日のうちに病院まで駆けつけてくれました。高熱と激痛、薬の作用で朦朧としながらも懸命に仕事の段取を話し、無理を承知でお願いしたところ、快く引き受けて下さり、ようやく安心して治療に専念する運びとなりました。
 
 入院生活は非常に辛いものでした。常に激しい痛みに悩まされ、熟睡する事も難しい状態で、痛みを感じない日など1日もありませんでした。寝返りをうつことも、毛布の僅かの重みにも苦痛を感じました。皮膚が欠損し、静脈が切断、腱に至っては指、足首の両方が切断された右足は、皮膚移植等○回の手術を受けました。 傷口が安定すると、社会復帰へ向けたリハビリが始まりました。早く仕事へ戻れるよう死に物狂いになって、辛いリハビリを頑張りました。この時はまだ、以前のように歩けるはずだと信じていたのです。医師と相談し、通常の倍の時間かけ努力したのですが、残念ながら症状の改善は見られませんでした。
精神的にも限界を感じ、気力も失い、鬱状態に陥った私に一時退院を医師が勧めて下さった時には、すでに事故から〇ヶ月が過ぎていました。
 
一時帰宅をしてみたものの、自宅での生活はとても不自由なものでした。病院では常に車椅子を使用していましたが、家の中では這って移動しなければなりません。立ち上がると激痛に襲われる為、食事や洗面以外は寝たきりで、結局は家に閉じこもる生活でした。
 
医師からは、回復には何年かかるか解らないと言われていましたが、社会復帰するためにもなんとか歩けるようにして欲しいと訴えました。しかし、治療の方法は無いと言う事でした。そして、そんな時、切断という選択肢を示されたのです。それはとても受け入れ難く、辛い言葉でした。その後、いくつかの病院をまわり、詳しく診察して頂きましたが、結果は同じでした。
 
何日も何日も悩み続け、決断するには大変な覚悟がいりましたが、−生歩けない事の方が私には辛かったのです。医師に決意を伝え、手術のため再び入院することになりました。
 
入院してからもこれでよいのかと自問自答を繰り返す毎日でした。
また、この事を妻、親族等に問うことは酷でした。周りでたくさんの方が励まして下さり、有難さを感じましたが、また、孤独感でもいっぱいでした。
 
当日手術台に移され麻酔をかける直前、先生方に少しだけの時間を頂き最後に自分の足を触りました。
切り離されてしまう私の一部に、心の中でいままでの礼と、切断する事の詫びをいいました。
麻酔から覚めた私は、今まで経験した事の無い激しい痛みに体の震えが止まりませんでした。状態が落ち着いた時、そっと上掛けを捲ってみました。
分かっていたこととはいえ、やはり喪失感は大きく涙があふれました。
 
 
その後は、幻視病に悩まされながらも術後の経過は良好で、〇〇日間で退院する事ができました。〇〇〇日間にも及ぶ入院生活がようやく終わったのです。
 
初めて義足を着けた時、正直なことを言えば、がっかりしました。まるで竹馬に乗っている様です。最初の不具合は仕方ない事らしいのですが、かなりの違和感がありました。非常に重く切断部に負担がかかり、痛みから思うように歩けず、とても疲れるものです。義足に慣れてくれば痛みは徐々には軽減するとの事でしたので、毎日歩けるよう練習を続けました。あまり変化のないまま通院治療と、義足の調整を続け、症状固定となったのは手術から〇ヶ月後のことでした。治療期間は〇〇〇日にもなりました。
 
治療終了後は、社会復帰へ向けて頑張っていますが、環境はなかなか厳しく、不自由さを感じざるを得ません。外出は障害者設備の有無を心配し、階段の上り降り、正座が出来ない為に座敷に上がる事も出来ません。重い荷物を持つ事、中腰になること、長い時間立ち続ける、座る事さえ困難です。
  日常生活も行動範囲が限られてしまい、以前の仕事に復帰することは不可能でした。事故以来のお客様には迷惑かけ、また、同業者の方にも何時までも負担を強いるわけにもいかず、断腸の思いで廃業を決意せざるをえませんでした。非常に無念です。
 
以前は同業種の会社で正社員とじて勤務し、この業界の未来の可能性を感じ、かねてから独立を考えておりました。同業者の方が独立を薦めて下さり、仕事も頂ける約束も出来ていました。また、充分な実務の経験もありましたので、開業を決意するに至りました。
 
高価ではありますが、ごみ収集車という特殊車輔を購入。〇〇市、〇〇市の収集運搬事業許可取得。自宅を事務所にスタートの準備が整いました。
 
平成〇〇年〇月〇日 〇〇クリーン一般廃棄物収集運搬業 開業。
. 主な仕事は、飲食店、工場、及び事業所から出る可燃物、不燃物を契約にて決められた時間に収集し、市の指定する廃棄物処理施設へ搬入する仕事です。ほかには、不定期ではありますが、一般家庭からの粗大ゴミ、引越しごみ等の回収依頼があります。
 
開業当初は、独立を薦めて頂いた方からの仕事をうけ、滑りだしは順調でした。その後、徐々にではありますが、下請けの仕事から自らが契約を結んだ顧客を増やしていこうと考えていました。
長期的には収集車を〇台増車出来ればと夢を持って取り組んでおりました。仕事も安定し、将来の事業展開について考える余裕もでき、充実した日々を送っていました。
 
仕事が忙しかったので、唯一の楽しみは仕事のほかには単車に乗る事でした。単車で遠出することは有りませんでしたが、通勤の僅かな距離すら私にとっては、とても楽しい時間でした。もう二度と運転する事も出来なくなりました。
 
この事故の後遺症は、私の仕事を奪い、単車に乗る楽しみさえも失いました。開業に投じた資金も回収できず、被った被害は生涯に渡って計り知れません。開業後、僅か1年4ヶ月足らずで廃業を余儀なくされたことは非常に無念でなりません。
 
私も何時相手を傷つける事故を起こすかもしれないと、相手の立場になって減刑も嘆願しましたが、事故の相手からは、処分が決まって以降、何ら連絡も有りません。
 
現在も足の痛みが続き、日常生活をおくるのもままなりません。
踏ん張りのきかない右足の筋力は日々衰え、何時かは車椅子の生活を強いられるのではないかと不安でいっぱいです。
 
 
《備考》後遺障害等級
施行令別表第二05級05号・1下肢を足関節以上で失ったため。
 
UP:2016/8/11
 
 

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